リアルな人間の最後を見て思うこと

こんにちは、このかです。今日も一日お疲れ様です。

仕事をしているといろいろ思うことはありますよね。

最近物価高だし、冬で寒いし、インフルも流行っているし、余裕のない人も多いですよね。

私は接客業なのでこのお客さんなんでここまで怒るんだろう?とか、こうやってやりたい放題してるから誰からも相手にされなくなるんだろうなとか、自分から情報を逃して後で困るのは自分なのにとか心の中で毒を吐きつつ、自分も凸凹人間なので反面教師にしようと励んでおります。

よく考えると今まで自分の仕事の話はブログに書いてなかったなーと思ったので、今日は仕事の話を書いてみたいと思います。

自分のことが出来なくなっても生きていかなければならない現実

私のやっている仕事の一つに契約している高齢者や病気の方の家に行って決められたサービスをするという仕事があります。

今まで何人も担当していますが、一人一人性格も事情も体の状態も問題点も違うのでどんな方だったのかは今でも大まかには思い出すことが出来ます。

孫のように可愛がってくれた人、最後まで苦しみと戦っていた人、毎回クレームだらけだったけど最後はありがとうと言ってくれた人、いつも明るく気丈に振舞っていたけど弱さを見せてくれた人…今まで出会ってお別れしてその時々思うことはあったのですが、今担当している方の一人が今までで一番考えさせられる人だと思います。

その方は独居で歩行困難もあり既に独居出来る状態ではありませんが、本人と家族の問題で施設も同居も出来ないため、使えるサービスを全て使いながら独居を続けています。

「こんな状態でも一人暮らしって出来るんだ、いやするしかないのか」というのが私の素直な感想です。

直前の会話を覚えていない、料理やお風呂ゴミ出しなど普段の生活すらままならない、家にいろんな業種の人が来ていることも覚えていない、最近はトイレも汚れてしまうそんな状態です。

人間の最後はいろんな形がありますが、いろいろ考えさせられますよね。

その人が私に教えてくれること

そんな状態ですが、訪問するたびその人は私にいろいろお話ししてくれます。

亡くなってしまった夫の話、昔海外転勤について行って現地で暮らしていた話、子供の話、自分のしていた仕事の話…自分からは話さないけれど聞けば話してくれます。

最近の事は何一つ覚えられなくても昔のことは覚えていて、料理の本を一緒に見るとこれは良く作ったとか、これは夫に不評だったとか、何年経っても私の名前は覚えられないけれど玄関を開けるとこわばっている表情が和らぐのを見ると何とも言えない気持ちになります。

その人に会う度いろいろ考えさせられますが、いつも思うのはどのように生きていたって最後はこういう風になるということです。

大きな家で夫がいて子供も育て一生懸命に生きてきたのに、それでも最後は何も分からなくなってしまって、子供の助けもなく一人で生きていかなければならない。

家もなく子供もいない私から見ると羨ましいと思ってしまいますが、それでも最後はこうなってしまう。

親の介護をされている方は私よりもっと思うことがあるとは思いますが、これがリアルな人間の最後。他人事と思っていてもこれも一つのパターンです。

それに気づいた時、現時点でそれを知ってしまうのはあまりいいことのように思えませんでした。

だって悩んでも迷っても今を楽しみ尽くしてそれで忘れてしまった方が絶対に良いと思ったから。それを今知ったらどういう風に生きても最後はこうなるなら今の努力や楽しみが無意味だと感じられたから。

そしてちょっと鬱っぽくなってしまった時もありましたが、最近は捉え方変わりました。

やっぱり今を大事にして生きていきたい

だからといって楽しいことを楽しいと感じられる内から鬱々としては、今のこの時間もその先も自分の人生丸ごとつまらないものになってしまいます。

せっかく今は心も体も元気で、楽しみを共有出来る人もいる。忘れてしまっても最後が一人ぼっちでも自分は今を大事に生きていきたいと思うようになりました。

夫の転職の事を考えるうちに先のことは誰も分からない、考えたってどうにも出来ないということを受け入れられるようになってきたからかな?

だから夫とスイスやフィンランド、屋久島に行くという夢は出来る限り早いうちに叶えたいと思います。

最後を頭の片隅に置きつつ生きていく

これは大事とかあれは大事とか言われれば大事だなと分かるし思い出せるのですが、日々生きているとすぐに忘れてしまう私です。

だから人間いつかは死ぬと思っていてもいつも他人事のように感じてしまいます。

身近な人を失った時後悔しないように、また自分が死ぬ直前に後悔しないように、大事な人と自分のやりたい事を心から応援できるようになりたいと思いました。

それでは、また!